四季 秋 (講談社ノベルス)

四季 秋 (講談社ノベルス)

 読了。

 素晴らしい。端正で複雑な恋愛小説。人間の愛と孤独と誇りについての一考察。

 前作からいきなり時間が飛んで「有限と微小のパン」の数年後の物語になっていますが、物語的主題的には前作前々作から連続しています。

 S&MシリーズやVシリーズの登場人物が多数登場しますが、それらを読んでいないひとは読んでいるものにはできない読みかたで楽しむことができるでしょう。練無と紫子さんが出てこないのがちょっと残念かな。

 「すべてがFになる」との整合性については、読み返してみないとわからないけれど……読み返してみました。レゴについての箇所は矛盾していると思う。絶対的に整合しないというほどの矛盾ではないけれど。

 このシリーズには意外と細かい数字などの矛盾があるのですが、これもその一例かな。

 しかし、自分もやっておいて言うのもなんですが、実はある作品をゼロから構築するよりも他人が構築した作品のミスを発見し指摘し批判するほうが遥かに容易です。

 ひとつの作品を構築するためには思考の飛躍と想像力が必要ですが、そのミスを見つけるためにはただ注意深くさえあれば良いのですから。

 ネットでの書評でもしばしばある矛盾点を発見したことでその作品を全否定する人間を見かけますが(いや、ネット書評どころか直木賞の選考でもそういった問題がありましたね)、あるポイントを批判する人間はしばしばそれだけでその作品のすべてを把握しその作家に対して優位に立ったかのように錯覚することがあるようです。

 実際には批評能力とは作品のミスを見つける能力ではなく、そのミスが作品全体のなかでどのような意味を持つものなのか総合的に判断していく能力のことを言うのだと思います。

 ある本をどう読むかという問題は、そのひとがその本からどの程度のものを読み取れるかという問題でもあります。

 一冊の本がおもしろいかどうか、新鮮かどうか、魅力的かどうか、そういった問題は実はその本の内容によってではなく読むもののパーソナリティによって決まる。

 人間は本を読むことを通して自分を読むのです。それはだれかと語りあうことを通して自分を発見することと同じこと。

 もしひとつのミスを発見したことでそのポイントに捕らわれそこで思考停止してしまうとしたら、それがそのひとの読書能力の限界をあらわしているということになるでしょう。

 すべては自分の立ち位置によって決まるのです。その意味では、世界など、自分を取り囲んだ歪んだ鏡にすぎないとも言えるかもしれない。

 もちろんひとつのミスが作品全体を崩壊させていることもあるでしょう。しかし、それはとるにたりない瑕疵にすぎないということもありえるのです。

 「バガボンド」で「一点に捕らわれると全体が見えなくなる」という話がありました。読書においてもこれはあてはまりまるようです。

 一点の長所、一点の短所、そのようなものに視点を捕縛されずその作品の全体を鳥瞰的に眺めることが、ある作品を批評しようとする人間には必要なのではないでしょうか。

 よく怒りをこめてある作品の低劣さを非難する文章を見かけますが、あれが僕にはよくわかりません。作品の内容が未知である以上、購入する前にそれに失望するというリスクはあらかじめ想定しておくことが当然ではありませんか?

 そしてその失望の原因はつまりは自分の選択の失敗なのだから、本や作家に怒っても非建設的だと思います。

 そもそも一作の作品の低劣さなど、たいした問題ではないと思うのですが、これは個人の考え方の差かな……。