金庸「鹿鼎記(1) 少年康熙帝」★★★★ 徳間書店


読了。金庸の全作品のなかで、最後最長最高の傑作との声望も高かった作品である。5年も前から評判だけは聞いていたのだが、ようやく読めた。本来ならここで内容について詳述していくところだが、どうせ2巻以降の感想も書くことになるだろうから、それはあとまわしにして、これまでの金庸作品について軽く語っておくことにしたい。

この作品はアンチ武侠小説とかメタ武侠小説といわれる通り、金庸のこれまでの作品のパターンを裏返したともいえる内容で、それらの作品について知らなければ充分に楽しむことができないのではないかと思われるからだ。金庸の長編は全部で12ある。ひとつひとつ読んでもおもしろいのだが、すべて通して読むとその構想の雄大さがより胸に迫るようにできている。ここではそのひとつひとつについて簡単に紹介していくことにしよう。まあでもあれだ。長いから無理に読まなくてもいいかも……。


・「書剣恩仇録★★★☆

全4巻。金庸先生のデビュー作である。そしてたぶん彼の長編のなかでは最低の出来だろうと思う。僕個人がそう思っているだけでなく、本場の香港でもこの作品の評価はかなり低いらしい。だが、つまらない小説なのかといえばそんなことはない。波瀾万丈、奇想天外、日本の時代小説のせせこましいスケールに慣れた読者には想像もつかない世界がここにある。ただほかの作品が凄すぎて比較すると霞んで見えるというだけのことなのだ。

ただやはりデビュー作であるということもあり、いろいろな点で金庸独自のパターンが確立されておらず、「水滸伝」のような古典的な作品の世界観を流用している雰囲気がうかがわれる。お約束の男装の美少女などは既に出てくるのだが、武侠ビルドゥングス・ロマンという金庸独特の世界が完成していくのは次作以降のことになる。ただし、清国の皇帝・乾隆帝が実は漢民族だった、という「アドルフに告ぐ」みたいな奇抜な歴史小説的奇想を基盤にしているので、武侠小説に詳しくない日本の読者にも入りやすいかもしれない。

さて、この作品の主人公は乾隆帝の弟で反清組織「紅花会」の領袖という設定である。よりにもよって大清帝国皇帝の弟が反清組織の親玉なのだ。ここには漢民族=主役、侵略民族=悪役という図式が明確に存在する。これを形骸化した中華主義のあらわれにすぎないというのは簡単だが、この図式は実際に何百万何千万という人々の生命や生活が異民族の侵略によって踏みにじられてきた歴史に根ざしていることを忘れてはならない。しかし、この図式はこのあと作品を追うにしたがって崩れていく。この図式の変化は金庸の作品を追いかけることの楽しみのひとつなのだ。


・「碧血剣★★★★

全3巻。金庸の第二長編。後期の傑作のアクの強さと比べればいささか物足りない作品ではあるが、金庸武侠小説の基本的なスタイルとパターンは既にこの時点で確立されているといえる。舞台は明末清初の大動乱期。主人公は讒言を信じた暗君によって殺された明の将軍袁崇煥の遺児である。作者はかれが偉大な師匠のもとで修行を積んで強力な武術を身につけ、清の侵略と戦うさまを終始さわやかな筆致で描いている(最後には歴史年表の通りに明は滅亡し清の時代が訪れることになるのだが)。つまりこの作品においても漢民族=主役、侵略民族=悪役の図は動かないことになる。

だが、明の滅亡が異民族の侵略のためだけではなく、暗君の暴虐によっても引き起こされたものなのだという事実はしっかりと描きこまれており、後年の飛躍を予想させるものがある。しかしこの小説において印象的なのはなんといっても主人公の師匠のひとりにあたる金蛇老君という若者だろう。この金蛇老君、なんと物語に登場した時点で既に死んでしまっている。したがって、読者が知ることができるかれの性格や事跡などはすべて伝聞によるものにすぎない。ところが、金庸の筆はあざやかにこの故人の強烈なキャラクターを浮かび上がらせてのける。

かれは比類ない剣の天才で、「金蛇剣法」という独自の技をみずから編み出してのける。その性は邪悪ではないが、決して善良でもない。自分が気に入った者に対してはごく親切に振る舞うが、嫌う者は殺してもなんとも思わない。「家族を五人殺された復讐に敵五十人を殺す」というその行動そのものがなによりかれの性格を物語っているといえるだろう。とにかく陰湿で気まぐれな性格なのだがその愛情は激しく、結局はそのこの世でただひとり愛した女のことが足枷となって宿敵に破れることになってしまう。実に陰影に富んだ魅力的な人物で、はっきりいって僕は糞真面目なばかりの主人公などよりよほど好きだ。金庸の後期の作品にはこのような善悪さだかならざる魅惑的な人物がたくさん登場する。


・「雪山飛狐★★★★

全1巻。第三長編にして、異色作のひとつといえるだろう。というのも、この作品、ミステリ仕立てになっているのだ。名探偵のようなキャラクターは出てこないが、登場人物の情報のばらし合いによって次第に隠された真実があきらかになっていく。金庸の作品にはしばしばこのようなミステリ的な趣向が登場するが、一冊完全にミステリとなっているのはこれだけだ。さて、本書で描かれる謎は、100年前に死んだはずの明末の英雄李自成が実は生き延びていたのではないかというものだ。

その意味では、英雄としてあがめられていた李自成が自滅するまでの過程を描いた「碧血剣」の続編的な物語といえなくもない(ちなみに時代設定は「書剣恩仇録」とほぼ同じである)。たしかにミステリ仕立てではあるのだが、そこには100年間の血で血を洗う争いの記録が関係しており、大河小説的な魅力もある。金庸の長編には常に複数のエンターテインメント要素が絡んでいるのである。この物語の主人公は「雪山飛狐」の異名で知られる若き剣客胡斐。だが、僕の記憶ではかれが物語に登場するのは全体の3分の1程度である。

それまでに次々と登場人物が出てきて、「こいつが主役かな?」と思わせるのだが、実はそいつらはことごとく脇役で、しかも悪人という展開がすさまじい。金庸の作品にはこのように主役が遅れて登場するものが少なくない。その最も印象的な例は「秘曲笑傲江湖」だろうが、本作もかなりのものだ。なお、本作は金庸の全長編のなかで最も賛否両論を生む結末を持つ作品である。「この結末では納得できない!」という読者は日本にも海外にもたくさんいるようだし、僕としてもその気持ちはよくわかる。とにかく破格の結末なのだ。具体的にどのような結末なのかは、ご自分の目で確認していただくよりほかないが。


・「射雕英雄伝★★★★★

全5巻。第四長編。そして「射雕三部作」といわれる長大な連作の開幕編である。この時点でわずか四作目にすぎないわけだが、金庸の小説世界はこの作品によってひとつの完成を見るといってよい。物語の展開においても、人物の性格づけにおいても、この「射雕英雄伝」においてある意味で完璧な典型が生み出されているのである。実際、中国では金庸の生み出した数あるカップルのなかでも、この「射雕英雄伝」の主人公ふたりが最も人気があるのだそうだ。

この作品以降金庸は、この作品で確立されたパターンを打破する方向へ進んでいくことになる。その打破のしかたというのがまた凄いのだが、とにかく本作が金庸の代表作のひとつであることはまちがいないだろう。この小説の時代背景は大宋帝国の末期。宋と金というふたつの大国が争いあうなかで、北方でモンゴルがその牙を研いでいた時代である。主人公はモンゴルで育った漢人の若者郭靖。かれはのちに江湖の渡世者なら知らぬものはない大英雄としてその名を歴史に残すことなるのだが、物語に登場してくる時点ではまだごく朴訥で、どちらかといえば愚鈍ですらある平凡な少年にすぎない。

射雕英雄伝」では、この凡庸な少年がその生来の生真面目な性格によって次第に大きく成長していくさまが、すべてにおいてかれと正反対の性格を持つ美少年、楊康の破滅と照らし合わせながらじっくりと描きこまれていくことになる。こういった少年の成長の過程を丹念に描き出す手法が完成されたという意味で、この作品は記念碑的な作品であるということができる。主人公が苦難の末に成長していくところにこそ金庸の小説の最大の特色があり、だからこそかれの作品は武侠ビルドゥングス・ロマンといわれるのだ。

さて、郭靖はまぎれもない漢人の若者で、宋に対して強い愛国心をいだいているのだが、かれが育ったのはモンゴルの草原であり、物語の序盤ではあのチンギス・ハーンから娘の結婚相手に選ばれてしまったりする。この作品においては、決してモンゴル人は悪の権化ではない。それどころか、ある意味では退廃した文化をもつ漢民族よりもよほど素直で魅力的な人々である。漢民族を主役、侵略民族を悪役とする例の図式に、ここにおいてついにひびが入ったわけだ。このひびは次の「神雕剣侠」においてさらに激しく広がっていくことになる。


・「神雕剣侠★★★★★

全5巻。「射雕英雄伝」の十数年後の中国を舞台としたあの作品の直接の続編で、いわゆる「射雕三部作」の第二弾にあたる作品である。金庸の作品はすべてなんらかの意味でラブストーリーであるといっていいのだが、そのなかでもこれこそは最大の純愛物語だといえるだろう。最近、おもしろいメロドラマがないと嘆いている向きはぜひこの作品を読んでほしい。この「神雕剣侠」の物語は、いたずらな運命にもてあそばれながら出会っては別れ、別れては再会する王道メロドラマそのものである。

だが、メロドラマだからといって甘い展開を予想しないでほしい。この作品の主人公に降りかかる災難は、前作の主人公郭靖を襲ったものよりはるかに過酷である。なにしろ、郭靖はその朴訥で誠実な性格で多くのひとの好意を集めることができたが、この作品の主人公には味方らしい味方がほとんどいない。おまけにかれは自分の責任でない事情によって多くの人々から嫌われてもいるのである。「神雕剣侠」の主人公、その名を楊過という。「射雕英雄伝」においてかずかずの陰謀を繰り広げたすえに破滅して死んだあの楊康の実の息子である。

父から秀でた美貌と聡明な頭脳、母から優しい心を受け継いだかれは、郭靖とはなにもかも正反対の性格の持ち主である。郭靖はなにごとにつけてもひとより遅れる男だが、誠実でひとの信頼を裏切ることがない性格のおかげで、ついには大人物となった。楊過はなににおいても天才的な才能を見せるのだが、なまじ聡明なせいか、それとも父を知らずはやくに母を亡くして孤児として育った境遇のせいなのか、その性格は短気で反抗的、納得がいかないものに対してはそれがどれほどの権威であろうとかまわず噛み付く。

かれはその性格のために多くの敵をつくっていく。しかしその心は深く愛情に飢えており、自分に対し優しくしてくれる人物のためには命さえ惜しむことはない。この飢えた狼のような楊過は、多くのひとに愛されながら成長していった郭靖とは反対に、ただひとりだれを頼ることもできない孤独のなかで成長し、やがて「神雕大侠」と呼ばれる英雄へと育っていく。だがその過程においては侵略者の元軍に力を貸したりもしている。

もはやここにおいて例の図式はほとんど意味をなくしかけているのだ。そもそも社会から阻害されて育った楊過の心には愛国心などというものはほとんどなく、あるのは姉弟子、小龍女への純真な愛のみなのだ。猛る炎のような楊過と、静かな水のような小龍女はまったくちがう性質の持ち主だ。だがこのふたりは幾多の試練を越えて、たがいにとって理想的な恋人となる。本作が武侠小説史上最大のラブストーリーといわれる所以である。


・「飛狐外伝★★★★

全3巻。タイトルからわかるとおり、「雪山飛狐」こと胡斐の修行時代の冒険をえがいた外伝だ。しかし外伝なのに本編より3倍も厚く、しかも本編の物語と展開がまったく整合していないというとんでもない小説である。こちらが本編で、「雪山飛狐」のほうが外伝なのではないかと思える。しかし、いちいちそんなことを気にしていては金庸の読者はできない。ここはべつの話なのだと割り切って読むことにしよう。実際、物語的には両作品はほとんど完全に独立していて、その内容にはほとんどなんの関係もないし、どちらから読みはじめてもかまわない(僕は「外伝」のほうを先に読むことをお奨めする)。

僕には金庸先生がなぜわざわざ既存の作品の外伝という設定でこの物語を書こうと考えたのかよくわからない。この物語には「射雕英雄伝」のような強い歴史性はあまりない。一応歴史上の人物も出てくるが、なかば架空の人物のような描かれかたをしている。しかし「秘曲笑傲江湖」のように極端に伝奇色が強く、ほとんどヒロイック・ファンタジーのような世界観と化しているというわけではない。金庸の作品のなかでは中庸的な位置にある小説だといえる。おまけに主人公の性格に楊過のような暗さがないので、明るく楽しく読める痛快娯楽作品に仕上がっている。

もちろん金庸の小説の特徴である地獄のように厳しい試練の数々や深い悲劇性はこの作品にも見られるのだが、主人公が陽性の性格の持ち主なので、それもあまり気にならない。内容の明朗快活さという点では、「碧血剣」と並んで金庸の作品中のナンバー1なのではないか。この点、あとで紹介する「連城訣」などとくらべたら天と地の差である。金庸未体験の読者は、この作品から読みはじめるのもいいだろう。「書剣恩仇録」のキャラクターが再登場しているので、あの作品を既に読んだ読者はそういう意味でも楽しめるはずである。


・「倚天屠竜記」★★★★☆

全5巻。「射〓三部作」の完結編にして、金庸の第七長編。つまりかれの長編全12作品の折り返し点にあたる小説である。そう考えて読むと、この作品あたりから金庸の作風が次第に変化していくのが見て取れるような気がする。人間描写がよりどぎつく、ダークになっていくのである。決して金庸の特色である主人公の単純明快さや明朗快活さがなくなったわけではないのだが、ここらへんから脇役の陰湿さに凄まじいものが見えてきはじめる。金庸の小説でも、最初の「書剣恩仇録」あたりでは善人と悪人の比率は五分五分というところで、まあ世の中には善人もいれば悪人もいる、あまり人間を信じすぎるのも疑いすぎるのもよろしくない、といった雰囲気だった。

しかしこのあとはどんどん悪人の比率が増していき、人間はとにかく信じられないものだという空気になっていく。だが、それでも人間を信じられないようだと金庸作品の主人公たる資格はないのである。この物語の主な舞台は前作の100年ほどあと。すでに宋は滅び、中原はモンゴルによって支配されている。これを漢人の手に奪い返すのが今回の主人公である張無忌の役目である。しかしこの張無忌、一見温厚だがその実頑固なところがあり通すべき筋はきちんと通す郭靖や、世の中の不正や不条理に対しては炎のごとく激しく反発する楊過などに比べると性格が実に優しくできている。

おかげで人望が集まるのはいいのだが、その反面、決断においては優柔不断で、特に恋愛面においてその弱点が顔を出す。生涯小龍女ひとすじでどんな美女にいいよられても小ゆるぎもしなかった楊過の爪の垢をすこし煎じて呑ませてやりたいくらいである。まあ、おかげでかれは女性関係ではとにかくひどい目に遭う。女性キャラの存在感がやたらに強い金庸武侠小説のなかでも、この張無忌こそは女難ナンバー1といっていい人物であろう。そもそもこのお話そのものがあきらかに「女難物語」として構想されている。

張無忌の母親にしてからが、死に際に「女には気をつけろ」というような意味の遺言を残して死んでいくのだ。ヒロインは幼馴染みの女の子から敵対するモンゴルの王女、けなげな召使いの娘、毒使いの女、といずれおとらぬ粒ぞろいの美女が揃っているのだが、この4人がひとり残らず張無忌に対して秘密をいだいていて、明教とよばれる秘密結社を率いて救国の戦いをつづけるかれをあるいは助け、あるいは惑わす。ここらへんは完全に日本のラブコメ漫画と同じノリである。武侠小説版「いちご100%」といってもいいくらい。ただ、その陰湿さは半端ではなく、うかつに恋にうつつを抜かすと大変なことになる。

なにしろラブコメの行方に国家や民族の命運がかかってしまっているのだから凄まじい。もちろん最初から最後までラブコメばかりやっているわけではない。金庸はこのラブストーリーにそれを手にするものが武林を統一するという伝説を持つが、実際に所持したものはかならず破滅するという呪われた宝物「倚天剣」と「屠龍刀」を絡め、壮大なロマンを描き出していく。この二本の刀はある意味で「射〓三部作」そのものを象徴するものであり、その正体が判明するシーンでは、これまで三部作を読んできた読者はかならず感動できることだろう。


・「天龍八部★★★★☆

全8巻。「鹿鼎記」と並んで最も長く、そして同じく「鹿鼎記」と並び称される金庸の最高傑作といわれる作品である。おそらく武侠小説全体を見てもきわめて重要な意味を持つ作品であろうと思われる。というのも、この小説が中国の抱える民族問題に正面から切り込んだ内容であるからだ。金庸のほかの作品と異なり、この長編には四人の主人公がいる。段誉、喬峯、慕容復、虚竹。それぞれべつの民族に属するかれら四人が、時に争いあい、時に協力しながら過酷な戦いを生き抜いていくさまを金庸は壮大な、まさに壮大なスケールで描き出している。

だが、正直いってこの作品、第1巻、第2巻のあたりはいまひとつおもしろくない。これはこの2冊で主役を務める段誉という若者にどうも魅力が欠けているのが原因だと思うのだが、第3巻で第二の主人公、喬峯が登場したあたりから一気におもしろくなってくる。この喬峯こそは金庸が描いてきた数々の好漢のなかでも一、二を争う快男子だといえるだろう。これまでの作品の主人公、郭靖や楊過はなにも持たない状況からすこしずつ成長していってついに強力な武術を身につけるに至った人物だった。

だが、喬峯は登場時から武林で一、二を争うほどに強く、深い人望があり、人間的にも成熟していて、ほとんど文句のつけようがない人物だ。「男のなかの男」という呼称はこの男のためにこそある。しかしそれだけに喬峯が乗り越えなければならない試練は壮絶をきわめる。かれはそれまで漢人のために契丹人の侵略者と戦っていたのだが、実は契丹人の出生であるという秘密があばかれるに至ってかつての仲間たちから裏切り者とみなされ、率いてきたかれらと命を賭けて戦う羽目になるのである。

この展開は「自分は侵略側の民族だと思っていたのに、実は漢民族だった」という「書剣恩仇録」の乾隆帝や「射雕英雄伝」の楊康の人生を逆転したものだ。かれらの場合は出生の秘密をあかされたあと「漢民族のために戦え」と求められることになるわけだが、喬峯は自分がこれまで命がけで戦ってきた敵の側に所属すること立場であることを知らされるのである。かれはこの暴露によって文字通りすべてを喪って放浪し、そしてその過程で次第にほんとうに漢人ばかりが正義といえるのか思い悩むことになる。

これまでの作品のなかですこしずつひびが広がってきた漢民族主人公型の図式が、ここにおいてついに完全に崩壊したわけだ。これは武侠小説にとって革命的ともいえる展開であったらしい。武侠小説にとって、主人公が漢民族であることはいわば常識中の常識であるらしいのだ。否、これはひとつ武侠小説だけの常識ではなく、何千年間にわたって培われてきた中国大衆物語世界全体の常識であったのだろう。だが、金庸は堂々とその最大のタブーを崩してのけた。

そしてかれは読者に問い掛ける。民族とはなにか。国家とはなにか。ひとはどう生きることが正しいのか。生まれがあばかれた途端、喬峯が受けることになる迫害はほとんど日本人の想像を絶している。それまで忠誠をつくしてきた部下たちが、突然刃をかまえて襲い掛かってくる。なかにはかれのおかげで命が助かったものもいるというのに! この壮絶な差別の嵐の前には「人間はみな平等だ」などという綺麗事は色を喪う。そして喬峯の前にはさらに絶望的な運命が待っている……。

異民族間の憎悪というものがいかに根深いものなのか、この作品ほど真に迫る迫力で伝えるものはない。余談だが、この作品の執筆にはおもしろいエピソードがある。金庸が自分の経営する新聞に「天龍八部」を連載していたあるとき、かれは外国へ旅行することになった。しかし新聞の目玉である連載小説の掲載に穴をあけることはまずい。しかたなく金庸は知人のある作家に代筆を頼んだ。ところが、この作品のあるヒロインの邪悪な性格を嫌ったその作家は、金庸には無断で勝手に彼女を盲目にしてしまう(!)。

驚いたのは帰国した金庸である。旅行から帰ってみたら自分が知らないうちに予想もしないような展開になっているのだ。さぞ頭を抱えたにちがいない……。こんな事件があったせいばかりではないだろうが、この「天龍八部」、作品の完成度という意味では、あまり高くはないと思う。やたらにおもしろいところと凡庸なところの差が激しく、一貫しておもしろいとはいいづらい。だが、その主題の斬新さと冒険性においては、金庸の十二の作品のなかでも、まずこれが第一に挙げられることはほとんどまちがいがない。


・「連城訣★★★★

全2巻。いままでさんざん書いてきた通り、「碧青剣」以降の金庸の作品はほとんどすべてがなんらかの点である方向性の頂点をなしているといえる作品ばかりなのだが、この「連城訣」には万人が認める「金庸作品中ナンバー1」の要素がひとつある。「主人公がひどい目にあう作品ナンバー1」である。とにかくこの「連城訣」の主人公狄雲は作中で徹底的に不幸な目に遭う。もともと金庸の小説では主人公は軽く普通の長編小説10冊ぶんくらいの災難を背負い込むことになっている。

その程度のことを解決できないようでは金庸作品の主人公たる資格はないのだ。しかしそれにしても狄雲の場合はあまりといえばあまりだ。僕はいままで何千冊も小説を読んできてここまで不幸な奴をほとんど見たことがない。物語そのものはあきらかに大デュマの「モンテ・クリスト伯」を下敷きにしているのだが、モンテ・クリスト伯爵ことエドモン・ダンテスに同情してもらえそうなくらいの悲惨さである。

まず殺人の濡れ衣を着せられ、この世でいちばん愛する幼馴染みの少女にも疑われ、おまけにその少女は自分を陥れた男とと結婚してしまい、そのうえ両手の指を数本切り落とされた上、武術を使えないよう肩に穴をあけられてそこに鎖を通され、文句をいえば小便をぶっかけられ、そのまま日のささない極寒の牢獄で何年もすごし……これでほんの序の口なのですぞ。登場人物のほうもこれでもかとばかりに極悪人ばかりで、不幸な境遇ではあるものの根は善良な狄雲はその想像を絶するエゴイズムの嵐のなかで孤独にさすらうことになる。

だが、ただひたすら陰惨なだけのお話なのかといえばもちろんそんなことはない。これほどダークなエピソードの連続であるにもかかわらず、すべてはきちんと収まるべきところに収まり、物語はハッピーエンドで幕を閉じるのである。金庸作品のなかでもそうとうマニアックな作品だといえると思うので、だれにでも無条件でお奨めできるわけではないが、読めばきっと心に残るなにかを得ることができると思う。


・「侠客行★★★☆

全3巻。日本で出された順番では三番目だが、本国では第十長編にあたる作品。この作品ではこれまで次第次第に進んできた「主人公のアイデンティティの崩壊」が極限にまでつきつめられている。なにしろ主人公の名前は「狗雑種(のらいぬ)」である。日本語で聞けばたいしたことがないあだ名のように聞こえるが、これは中国語ではSon of a bitchを意味する最上級の侮蔑後なのだそうだ。「おい、サノバビッチ」と呼ばれる主人公というのもすさまじいものがあるが、この狗雑種くん、名前だけでなく、家系や経歴などすべてがまったく不明なのである。

当然、漢人としてのプライドなど抱けようはずもない。主人公が名門の貴公子だった「書剣恩仇録」からえらいところまで来てしまったものである。この特異な主人公に、入手した者の願いを何でもかなえるという「玄鉄令」だの、10年に一度あらわれ、それにさからったものは皆殺しにされる「賞善罰悪令」だの、その賞善罰悪令の使者たちによって招待される「侠客島」(この島の秘密は実はとんでもなく武術オタク的なものである)だのといったあやしげな存在がからみ、物語は二転三転する。

またこの作品も脇役の造形が凄い。たとえば「一日不過三」という異名のキャラクターが出てくるのだが、こいつが「一日三人以上殺さない」と誓いをたてているというとんでもない奴で、「おれは誓いを守っているのになぜ怨まれるのだ」と不思議がったりする。しかも当然のごとく「一日不過二」とか「一日不過四」という兄弟がいるのである。まあ、おもしろくないわけではないのだが、はじめて金庸を読むひとには向かない作品ではあるかもしれない。個性が強すぎるのである。


・「秘曲笑傲江湖★★★★★

全7巻。金庸の最後から数えて二番目の長編である。そして金庸の全長編のなかで最も伝奇色が強く歴史色が弱い作品であるともいえるだろう。したがって本作品には「射〓英雄伝」のような歴史小説的な壮大なスケール感はあまりない(それでも日本の時代小説などとは桁違いのスケールなんだけど……)。そのかわり、二転三転する物語のおもしろさについていえば、僕がいままで読んだ全武侠小説のなかでもまずベストといってよい作品だ。とにかくめっぽうおもしろい。

「一読巻を措くことあたわず」とはこの小説のためにあるような言葉である。具体的になにがおもしろいのか。主人公に次々と降りかかる過酷な運命がおもしろいのである。「連城訣」ほどではないだろうが、この作品の主人公、令狐冲も相当ひどい目にあう。親兄弟よりも強い絆で結ばれているはずの師匠や兄弟弟子には裏切られ、最愛の妹弟子には見捨てられ、義侠のために行動を起こせば裏目に出て、自殺したくなってもおかしくないような悲惨な境遇に叩き落とされる。だが、酒と友と音楽を愛し、友人のためならば惜しげもなく命を投げ出して戦うかれはまさに「好漢」という言葉がふさわしい人物だ。

実際、かれは金庸の全小説のなかで、いや僕がこれまで読んできたすべての小説のなかでも、最も好きなキャラクターのひとりである。その性格をひと言でいいあわらすならば、無類のお人好しというに尽きるだろう。「射〓英雄伝」の主人公もどうしようもないお人好しの若者だったが、かれはそのおかげでさまざまなひとの尊敬や人望を集めることができた。だが、われらが令狐冲は、その善良な性格のために徹底的に裏切られて地獄の底まで突き落とされていくことになるのだ。

さて、ここでひとつ「武侠小説」という言葉の根本を問い質してみよう。「武侠」の「武」、これはだれにでもわかるだろう。武術や肉体の強さのことだ。それでは「侠」とはなにか? これは畢竟、「弱気を助け、強気を挫く」というひと言に尽きると思う。困っているものがいたら助ける。たとえそれが強大な存在に敵対することになるとしても。ただそれだけのことなのだが、これが実に並大抵でできることではないのだ。たとえば、学校のクラスでクラスメイトがいじめにあっているさまを想像してほしい。

親や教師はよくいう。「いじめを見過ごすのはいじめに荷担するのと同罪だ」と。だが、実際にクラスで集団によるいじめが発生したとき、勇気をもってそれを阻止できる人間がどれほどいるというのか。クラスで主流の集団にさからえば自分だってひどい目に遭うかもしれないし、だいいち自分ひとりが行動したところでなにも変わらないかもしれないのだ。賢い人間はこころのなかで同情しながらも黙って見過ごすことだろう。しかし、世の中にはたとえ自分がどれだけ傷つこうともひとを助けずにはいられない大馬鹿者がいる。そんな大馬鹿の精神こそが「侠」だ。この「侠」の精神を持った武術者を「侠客」と呼ぶ。

令狐冲こそはまさにそんな「侠客」の代表格ともいうべきキャラクターである。物語中、かれは何度となく見ず知らずの人間のため勝ち目のない戦いに挑むことになる。そもそもかれの登場にしてからが、面識のない尼僧の少女を助け出すために全知全能を尽くして格上の相手に戦いを挑むさまが、救出されたその少女によって語られる──というシーンなのだ。このシーンを読んで燃えない奴とは友達になりたくないね。しかしそんな報われない令狐冲も、やがて最強の剣客独孤求敗(あまりに強いため生涯負けを求めつづけていたが、ついに負けることができないまま死んでしまったというお人)が生み出した絶技、独孤九剣を身につけ、武林有数の剣客として成長していく。

しかしそうなっても酒と友と音楽を愛し、辛いことがあってもほがらかに生きるその性格はすこしも変わらないのである。僕は、そんなかれが大好きだ。ところで、昨今話題になった香港映画「少林サッカー」には、少林寺拳法を使う主人公が「こんなとき独孤九剣があれば──」と発言して「それは崋山派だろ」とつっこまれるシーンがある。これはこの「秘曲笑傲江湖」を背景にしてのギャグである。つまりこの作品は香港人ならだれでも知っているほど知名度があるということなのである。そんなところにも金庸の偉大さはあらわれている。