飛ぶ教室 (岩波少年文庫)

飛ぶ教室 (岩波少年文庫)

 読了。

 「飛ぶ教室」。

 今世紀で最も有名な児童文学者のひとりであるエーリッヒ・ケストナーの最高傑作といわれる小説である。おもしろかった。

 ドイツの寄宿舎学校を舞台にした少年小説の代表的作品で、物語の舞台となる学校は萩尾望都の「トーマの心臓」を思い起こさせるし、子供たちが敵味方に分かれて雪合戦をするシーンはコクトーの「恐るべき子供たち」(これも萩尾望都が漫画化している)みたいだったが、この作品の雰囲気はあんなふうに詩的でも、病的でもなく、いたって明朗快活、健康的な空気に充ちている。

 少年たちの友情、勇気、献身、努力、苦闘……かれらの日々はどこまでも美しい。

 だが、その背景にあるものは無力な少年時代に特有の不条理やせつなさであることを忘れてはならない。

 ここには親に捨てられて異国で育った孤児の少年がいる。仲間たちの卑怯な裏切りに傷つき、ひとり経ち尽くす孤独な少年がいる。家へ帰る旅費すらない貧しさをだれにも見せずに泣く少年もいる。

 ケストナーはいう。

 とうとう私は、ある著者からおくられた子どもの本をとりあげて、読みはじめましたが、まもなくわきへおきました。ひどく腹がたったのです! なぜだか、いいましょう。その著者は、じぶんの本を読む子どもたちをだまして、はじめからおわりまでおもしろがらせ、楽しさで夢中にさせようとします。このずるい作者は、子どもというものが、極上のお菓子のこね粉でできてでもいるようにやるのです。

 どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?(この機会にみなさんに心の底からお願いします。みなさんに子どものころをけっして忘れないように! と。それを約束してくれますか、ちかって?)

 つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題でなく、どんなに悲しむかということだけが問題なのです。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?

 ケストナーはここで少年時代のやるせなさや哀しみをあっさり忘れ去ってしまう大人たちにこそ語りかけている。

 子供に説教をするために書く作家はいくらでもいる。だが、そういう作家の書いた本は自分がそうする手間を省きたい親たちには歓迎されはしても、決して子供たちには受け入れられないものだ。ケストナーは子供たちを励ますためにこそ書く。

 また、かれはいう

 私がいまいうことを、よく頭にいれておきなさい。かしこさのともなわない勇気は、不法です。勇気のともなわないかしこさは、くだらんものです! 世界史には、ばかな人々が勇ましかったり、かしこい人々が臆病だったりした時が、いくらもあります。それは正しいことではありませんでした。

 勇気のある人々がかしこく、かしこい人々が勇気をもった時、はじめて人類の進歩は確かなものになりましょう。これまでたびたび人類の進歩と考えられたことは、まちがいだったのです。

 この言葉が、ナチス政権下のドイツで、ただ児童書だけを除いて自分の本がことごとく焼かれるという状況のもとで書かれた言葉であることを思うと、胸が熱くなるものがある。

 ここに書かれているのは、美しい、あまりにも美しく現実離れして思えるような世界の物語である。た

 とえこの時代にあってはこれが真実であったとしても、時代は変わった。勇気も、友情も、正義感も、今日では古くさいものになりはてた。

 しかしそれでもなおケストナーの本は読み継がれつづける。真に優れた物語が持つ大いなる力を次なる世代に伝えるために。