喪服のランデヴー (ハヤカワ・ミステリ文庫 ウ 1-1)

喪服のランデヴー (ハヤカワ・ミステリ文庫 ウ 1-1)

 読了。

 たとえばバーナビー・ロスの正体がエラリー・クイーンであるように、コーネル・ウールリッチの正体はウィリアム・アイリッシュである。

 そしてアイリッシュでもあるウールリッチは、おそらく20世紀のサスペンス小説で最も偉大な作家だろう。

 かれがサスペンスにあたえた影響は、クイーンが本格にあたえた影響と比べてすら、決して小さくはない。

 その証拠のように、アイリッシュ名義の代表作「幻の女」は早川書房の「ミステリ・ハンドブック」の人気投票でみごと1位を獲得している。

 本書はその「幻の女」とならぶかれの傑作。

 原題は「Rendezvous in Black」。邦題ではわからないが、題名にBlackを入れていることで有名なブラック・シリーズの一作である。

 いや、しかし、おもしろかった。分量は文庫にしてわずか300頁強、この何倍もの量を誇る超大作が目白押しの昨今では「薄い本」といってもいいくらいだが、内容は決して軽くはない。

 物語は幼いころから深く愛しあうひと組の恋人たちが、滑空する旅客機から投げ出されたひとつの瓶によって永遠に引き裂かれるところから始まる。その瓶は女の頭を無残に打ち砕いたのである。

 あえてケチをつけるなら、いままさに飛んでいる飛行機の窓を開けてそこから空き瓶を投げ落とすなどということがほんとうにできるものなのか僕はかなり疑問である。

 だがまあそれは作品の前提にすぎないから、どうでもいいといえばどうでもいい。

 ふたりが永遠に結ばれるはずだった六月を前にしてこの世にひとり残された男は、耐えがたい哀しみのなかでいつしかその旅客機に乗っていた5人の男たちへの復讐を決意する。

 それもかれは直接に男たちを狙うよりもっと残酷な方法を選ぶ。みずからの恋人を奪い取られたその哀しみを思い知らせるため、男たちの妻や恋人を誘惑してから殺すのだ。

 はじめに容疑者のリストを公開して、この名前がやがて消されていくところを読者に想像させる手法は、どこか山田風太郎忍法帖を思わせるものがある。

 このように書いただけではむしろ平凡な設定に聞こえるかもしれない。だが、これがウールリッチ独特の魔術的な描写にかかるや、ひとを惹きつけてやまぬ独特の魅力を帯びて輝くのだ。魔法使いの杖のひと振りでシンデレラが美貌の姫君へ変わるように。

 しあわせなふたりに突如として訪れた悲劇を、かれは独特のセンチメンタルな文体で叙情的に謳いあげる。

 この作品の冒頭の文章は「幻の女」のあのあまりにも有名な冒頭――夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった――に匹敵するほど印象的である。

 二人は毎晩八時に逢った。雨の降る日も雪の日も、月の照る日も照らぬ日も。それは、最近はじまったことではない。去年もそうだったし、その前の年も、そのまた前の年もそうだった。しかし、この八時に逢って十二時にさようならをいう毎晩のデートも、もう少しで終止符を打たれることになっていた。一週間か二週間もすれば、彼らの逢瀬は永続的なものになる――四六時中会うことになるだろう。もう間もなくだ。六月になったら……。二人はそう誓い合い、そしてたしかに、六月は、今年もゆっくりめぐってこようとしていた。遅々とした歩みで。

 そう、たしかにこれは過剰なまでに甘い文体である。このように甘くしかも極度に技巧的な文体を用いた小説は、必然的に読むものを選ぶことになるだろう。

 しかし、上質の酒の味が決してくどくはならないように、ふしぎとウールリッチ作品の甘さはくどくない。

 それどころかかれの言葉遣いに魅せられたものは、気付くといつのまにかいつまでもこの文体がもたらす甘く苦い陶酔に浸っていたいと思うようになるのである。

 文体のみならず、物語の内容もウールリッチの場合は詩的かつ女性的である。

 ふつう妻や恋人を殺された復讐小説の主人公は激しい怒りや憎しみに駆られるままに復讐に乗り出すものだろう。ハードボイルド小説にはそのような作品がたくさんある。

 そこには時に本来自分の所有物であるはずの女を奪われたという独占欲に根ざす怨みが見え隠れすることもないではない。

 だが、この「喪服のランデヴー」の主人公は違う。恋人を喪ったあと、かれは停まってしまった時計をつけたまま、それまでずっと恋人との逢瀬の場所だったドラッグストアに佇みつづける。

 「明日の晩彼女はきっと来る。明日の晩の八時に」とつぶやきながら。だれもかれに声をかけようとはしない。だれもかれになにをしてやることもできないからだ。都会の悲劇。都会の孤独。

 かれの心にあるものは、怒りよりも、憎しみよりも、もっと深く暗いもの――己の半身をもぎ取られたものだけが知る癒しえない魂の疵なのだ。

 ウールリッチの小説はたしかに技巧的だが、同時にそっけないほど簡潔でもあり、この第1章はわずか18頁で終わる。

 そして続く第2章の描写も簡潔をきわめる。この章は読者にとって見知らぬある女の葬式の場面からはじまる。だが、説明されずとも読者はこの女があの旅客機に乗っていた客のなかのひとりの妻であることを察するだろう。

 その推測を裏付けるように妻を亡くした男のものに一枚の手紙がとどく。そこにはわずか一行、こう記されている。「どんな気持ちか、やっとわかったろう」。

 すべてを奪われた男の復讐のパレードがここに幕を開けたことを読者は知るだろう。この第二章は実にわずか17頁。

 ふつうに考えれば最も重要であるはずの最初の殺人がいかにして行われたか、ウールリッチは大胆にもそのすべてを省略してしまうのである。

 後世に莫大な影響をあたえたサスペンスの天才の本領がここにある。この作品を読めば、小説にとってはなにを描くかが重要である以上に、なにを描かないかもまた重要であることがよくわかる。

 一方、警察の側はこれが殺人であることすら気がつかない。被害者には殺されるような理由がないからだ。

 読者の側から見れば何者がなんの目的でひとを殺してまわっているのかあきらかだが、事情を知らない刑事の側から見るとこの動機はミッシング・リング(それぞれ無関係に見える複数の事件を影で繋ぐ要素)ということになるになるのである。

 これ以降、物語は狂気の連続殺人をとどめるべく懸命にミッシング・リングを探し求める警察と、毎年、恋人が殺されたその日に復讐を遂げつづける主人公との戦いという色を帯びていく。

 しかしこれはクイーンが描いたような複雑な頭脳戦ではない。そもそも主人公には犯罪を隠す意図すらたいしてないようなのだ。

 それでもなお、ひとたびはかれを地獄へ突き落とした運命がこの薄幸の若者を哀れみでもしたかのように犯罪は発覚することなく続く。

 第一章と対をなす感動の最終章まで、あなたは決して目を逸らせない。