小説。

「初めての椎」

1.

 クリスマスを三日後に、新年を十日後に控えたその日、京都の古い街並みはいつにも増して冷たい空気に包まれていた。もともと、冬の京都は凍てつく都市である。しかし、例年と比べても、その日の冷え込みは尋常ではなかった。
 昼間、燦燦と日が差していた頃はまだ空気はほのかに熱を孕んでいたが、夕刻、昏い空に群雲が忍び寄り、うそのように真白い雪を降らせはじめると、気温は一気に氷点下にまで下がり、染み付くような凍気が道往く人々の足を急がせた。
 京都では雪が街を化粧しつくすことはめったにないが、この日は例外になるかもしれない、そう天気予報も告げていた。
 敷居住人(しきい すみひと)は、その凍りついた夜の街を、急ぐでもなく、寒がるでもなく、平然とした足取りで歩いていた。
 痩身を包み込むコートの肩を、雪が白く染めているが、払いのける気配もない。まるで雪が降っていることなど気づいていないようだった。
 背の高い男である。おそらく、一八○センチメートルは優に超えているだろう。肩幅は広く、足は長く、ちょっとモデルにでもしたいような完璧な体形だ。もっとも、そのからだつきは男性としては細身で、スポーツマンふうというわけではない。
 そのスタイル以上に印象的なのは、かれの瞳だった。輪郭のはっきりした、まず美男といえそうな顔立ちのなかに、メタルフレームの眼鏡に覆われて並んだ双眸は、あたかもこの冬の冷気によって凍り付いてしまったとでもいうように、冷たい光をたたえていたのである。
 それは、すべてのあたたかい感情が凍りついてしまった目、失ってはならないものを失った者の目だった。かれの顔立ちに惹かれて集まってきた女たちも、その瞳でじっと見つめられると、何かおそろしいものでも見たように離れていくことが少なくなかった。
 怖い目、と彼女たちはいうのだった。人間ではない、ロボットか何かの機械仕掛けの目のようだ、と。敷居はその言葉を否定しなかった。自分が冷たく無機質な人間であることを、だれよりもかれ自身が知っていたからである。
 いま、かれは人通りの絶えた寂しく暗い路を、ひとり、黙々と歩いている。
 と、敷居のその凍った瞳に、かすかな驚きが閃いた。深々と降りしきる粉雪により白く装飾された路地の先に、見慣れぬ黒いものを発見したのだ。
 夜の暗闇のなかで、初め、その物体は捨てられたマネキンであるように見えた。ひとのかたちをしているが、身動き一つする様子がなかったからだ。しかし、すぐに生身の人間、それも男性であることがわかった。
 その男は目を閉じたまま道端にうずくまっていた。ブラックのシャツとジーンズを着ているが、この冬空の下の格好としてはいかにも薄着である。そして、絶え間なく降り積もる雪はその全身を薄っすらと包み込んでいた。
 敷居はその姿を見て、一瞬、歩みを止めたが、すぐにふたたび歩きはじめた。
 どうせ、酔いつぶれた酔漢か何かだろう。そんな男が道端で凍死したところで自分の知ったことではない。そう思ったのだ。
 その歩みがもういちど止まったのは、男の顔を覗き込めるほど近くまで来たときだった。近くで見てみると、その顔つきは、予想外に若かったのである。おそらく、まだ二十歳には達していないだろう。十八にもなっていないかもしれない。意外にも、少女のように秀麗な、そしてあどけない顔立ちの少年だった。
 が、その顔を見つめる敷居の目に、ゆっくりと驚愕が広がっていったのは、かれの容姿が美しかったからではない。その顔かたちが、かれの記憶のなかにあるひとつの顔を思い出させたからだった。それはある時期、かれにすべてを捧げても惜しくないと思わせた顔だった。遠い遠い日の思い出が、瞬時に脳内によみがえる。
 気づくと、敷居の唇は無意識に開き、ひとつの名前を呟いていた。
「椎子……」
 自分の言葉に愕然として、敷居は口もとを指で覆った。かれの凍った瞳は、いまや、その奥にひそむマグマを覗かせていた。遥かな日に捨て去ったはずの苦悩、そして、愛。
 そのまま一分ほどもそこに立ちつくしていただろうか。敷居はゆっくりと少年の傍に座り込んだかと思うと、その頬を二、三回叩いた。かれはかすかにうめき声を漏らしたが、目ざめなかった。その額に手をやると、あきらかに正常ではない熱が伝わってくる。
 敷居はひとつ大きくため息をつくと、ゆっくりと少年の脇に手を差し込み、一気にその肉体を持ち上げた。意識を失くしたからだは重かったが、持ち上げられないほどではない。敷居はそのままの格好でふたたび歩きはじめた。
 夜だけがその場にのこされた。

2.

 窓ガラスの向こうから、ナイフのように峻烈な陽光が差し込めてくる。
 敷居は、その光の刃に目を刺されて、はっと目を醒ました。重いまぶたをこすり、何となく辺りを見回すと、見慣れた部屋の光景が目に入った。どうやら、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
 場所はかれの自室だった。3LDKのマンションの一室で、ざっと十二畳ほどもある広い部屋である。その広大な空間は、ベッドとソファ、高価な高性能なPCや音楽機器、そして膨大な量の本によって埋め尽くされている。
 敷居自身もこの部屋にどのくらいの本があるのか知らないが、少なくとも数千冊は下らないはずだった。趣味で集めたものもあるが、仕事の資料も含まれている。
「寝ていたのか……」
 低く独語して、かれはアール・ヌーヴォーふうの掛け時計に目をやった。十二時十六分。どうやら、寝ていたのは三十分程度のことらしい。ひとつため息をついて、かたわらのベッドに視線を送った。
 そこには、ひとりのうら若い少年が眠っている。昨夜、敷居自身が路傍にたおれていたこの少年を拾って、この部屋まで連れてきたのだ。
 しかも、少年はいま、寝巻きに着替え、そのなめらかな額に水を絞ったタオルを載せている。敷居は昨夜からひと晩中、高熱を発した看病していたのだった。まるで、優しい母親か看護婦のように。
 敷居はひとつ頭を振って、ポケットから煙草を取り出した。火を点け、ゆっくりと味わい、口から紫煙をくゆらせる。
 我ながら信じられないような気まぐれだ、と思う。いつも冷たい態度で他者を拒絶し、仕事のほかにはひと握りの人々と肉の関係をもつことで繋がってきた自分が、こともあろうに行き倒れの子供を助けるとは。まるで善人のようではないか。
 もちろん、『クリスマス・キャロル』のあの老人のように、急に改心したわけではない。ただ、どこか椎子に似ているこの子供を見捨てることができなかっただけだ。しかし、それにしても――。
 敷居はあらためて少年の顔を覗き込んだ。いっそ幼い、といいたいような若々しい顔立ちである。いまは目は閉じられているが、それでもこの少年は美しかった。テレビに出てくるアイドルたちと比べても、そう劣るものではないだろう。しかも、その種の少年たちにはなかなか見出すことのできない、天性の気品と、そして柔らかさをそなわっている。同年輩の少女なら、さぞかし騒ぐだろう。こんな少年がなぜあの暗い路地裏で倒れていたのか、敷居には想像ができなかった。
「家出か、それとも喧嘩か……」
 ひとり呟いて、敷居はあたらしい煙草に点火した。
 と、そのとき、昏々と眠りつつけていた少年のまぶたが、かすかに動いた。思わずはっとして、敷居が見守っていると、ゆっくりと、いかにも重たげにまぶたが開き、漆黒の瞳が敷居の目にさらされた。
 似ている。
 敷居は思わず胸を衝かれた。
 錯覚ではなかった。目を開いてみても、やはりその少年はかれの記憶のなかの少女によく似ていた。否、目を開けるといっそうよく似て見えた。
 たしかに、この少年の目には、椎子にはないものがある。ひたすらに愛らしく柔らかかった椎子とは違う、鋭い圭角のようなもの。男らしさ、といっても良いかもしれない。しかし、それでもなお、少年の顔つきは敷居に失われた少女を思わせて余りあるものがあった。まるで姉弟のように。
「気づいたか」
 胸の奥でざわめくものを無理に封じ込めて、声をかけると、少年はまだ夢のなかにいるようなまなざしで、かれの目を見つめた。もともと秀麗な顔かたちだけに、そういう目つきをしてみると、奇妙に少女めいていて、何となく艶っぽかった。敷居の胸の奥で、さらに何かが騒ぐ。
「ここ、は……?」
 少年はかろうじて、といった様子で声を絞り出した。光が眩しいのか、それとも紫煙が染みるのか、かすかに目を細めている。
「おれの部屋だ」
 煙草を灰皿に押し当てながら、敷居は答えた。
「昨日のことを憶えているか。お前は、意識を失って路地裏にたおれていたんだ。それを、おれが拾ってここまで連れてきた。親切なことにな」
 自嘲を込めて、

「そうか。世話になった。それでは、ぼくは出て行く」
「待てよ」
 敷居は我ながら愚かしいと思わざるをえない失意を覚えながら、少年をとどめた。いくら顔が似ていても、この少年は椎子ではない。
「おれは凍死寸前だったお前を助けてひと晩中、看病したんだ。いわば命の恩人だ。ああいうことになった事情くらい聞かせてくれてもばちはあたらんだろう」

「家出か」